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概要

okawa_design_vol.1

戦後「重要木工集団産地」へ、そして名実共に日本一を目指して。船大工の技術から指物づくりへと発展していったと言われる大川家具。江戸時代後期に田ノ上嘉作など数々の名工が榎津指物に改良を加え大川木工の礎を築きます。嘉作は、久留米の指物職人に弟子入りし、5年間腕を磨いて榎津に帰ってきます。榎津指物の評判が高くなり、九州中から注文がくるようになりました。しかし明治の中頃まで、大川で家具問屋をしている家はなく、そのほとんどが注文生産でした。だから、注文がない時は戸棚や机などを作って売り歩いていたそうです。明治も後半になると技術の分業化が進みました。当時指物業を営むものは551戸にのぼり、この数字は住人の4分の1が木工業に従事していたことを示します。1909年には三瀦軌道が、1912年には大川鉄道が通るようになり、売り先はますます広がっていきました。1910年には大川指物同業組合が成立。1911年には大川工業講習所がつくられ、榎津指物の育成と発展に力をそそぎました。このような努力の結果、榎津指物はこれまでにないほど景気が良くなり、木工業者もさらに増えていきました。太平洋戦争が始まると大川の木工業は大部分が軍需産業になりました。軍では木工の技術を活かして木で飛行機を作るように命じたそうです。当然、木製ですので飛ばすことが目的ではありません。飛行場に並べて、日本にはまだまだたくさんの飛行機があるのだぞとアメリカ軍に誇示するためでした。作られた木製飛行機は三井郡の大刀洗飛行場などに運ばれデコイとして使われたそうです。終戦を迎えると、戦争で多くの人々が家具をなくしていたため家庭用家具や公共施設の家具が必要となり、木製品の需要拡大で大川は空前の木工ブームが到来しました。1949年には、国から「重要木工集団産地」の指定を受けました。同じ年に第1回「大川木工祭」が開催され、大川の木工を大きくアピールしました。しかし、木工の集団産地として発展した大川でしたが、全国ではほとんど名前が知られていませんでした。大川家具の全国進出は当時の家具づくりに携わる人すべての願いでした。現在の大川木工まつり木製飛行機の主翼の組み立て【昭和42年】建設中の大川家具工業団地。(三又地区家具工業団地)大川小学校での昔の木工まつり