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概要

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大川の歴史は、大川木工の歴史といっても過言ではないほど、木と深く関わっています。大川は、他の家具の産地と違って近隣に森林資源が豊富なわけではありません。それでは、なぜ大川は生産量トップの家具の産地となったのでしょうか。筑後川は、長さ141kmにもおよぶ大河です。みなもとを幕府領豊後国玖珠郡(大分県)に発し、久留米・柳川・福岡・佐賀の4藩領を通り有明海に注いでいます。古くより、筑後川の河口に位置する大川は、筑後日田から最良の木材が集まる大川で優れた船大工の技術から指物が誕生。川上流の木材の産地・日田より川を下ってくる材木の集積地として発展しました。その中心が大川家具の発祥の地と言われている「榎津(えのきづ)」です。この地名は、室町時代、船大工の技術を生かして榎津指物を始めたと伝わる「木工の祖 榎津久米之介」に由来するとも言われています。18世紀頃になると1751年に若津港、1774年には住吉港が築港されます。これにより大阪や江戸との商圏が結ばれ広域な勢力圏を形成していきます。これによって大川では造船が盛ん【昭和55年】若津港に積み上げられる外材。小保の船大工の作業場(年代不明)【昭和32年】若津湾荷揚げ場より大川橋方面を望む。若津港に入る材木運搬船。【昭和20年代】花宗川流域の製材所。河岸に集められたイカダ。になり多くの船大工が住みつくようになり、その技術を活かして木工業が発展していくのです。1875年ごろの榎津町には船大工が101名、大工41名、木挽き15名、桶師9名が従事してた記録が残っています。筑後川の筏流しは、大川の風物詩ともいわれ、1681年頃から日田の相楽吉三郎が、初めて筑後川に竹筏を組んで流したことが始まりと言われています。日田周辺の山から切り出された木材は、管流しと呼ばれる方法で亀山公演下の広い川辺に集められ、80から130本を蔓でしっかり組み、上流を筏師が竹竿を操り、急流と露出した大小の岩石と戦いながら一気に流しました。家具産業が盛んになると木材もたくさん必要となり、昭和の初めには、日田の木材の90%が筏で大川まで運ばれたと言います。筏流しは、夜明けダムの建設が始まった1952年に途絶えました。